玄地屋用語の基礎知識



UFC(アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)
遠藤ミチロウ(えんどうみちろう)
大槻ケンヂ(おおつきけんぢ)
空手会(からてかい)
グレイシー一族(ぐれいしいいちぞく)
JAGATARA(じゃがたら)
柔道(じゅうどう)
調査団(ちょうさだん)
ホーク・ウォリアー(ほーくうぉりあー)
見世物小屋(みせものごや)

アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ(あるてぃめっと・ふぁいてぃんぐ・ちゃんぴおんしっぷ:格闘技大会)
93年に第一回UFC(あの頃は「アルティメット大会」が一般的だったと思う。)をグレイシー一族(エリオ派)がセルフプロデュースした。エリオ六男・ホイスが連覇したことでグレイシー柔術の名は一躍世界に広まった。ルールは噛み付き・目潰し以外なんでもあり。ホントはそんなことないがそういう触れ込みだった。この第一回UFCをビデオで見た玄地屋は高校入学を機に柔道を始めることになったの。
いまでこそ総合格闘技大会は女の子だって見れるものになったが(プライド等)第一回UFCはまだルール内での戦い方が確立されておらず凄惨なものだった。その中でホイスの戦い方はカッコよかったんだって。
(写真は無し。めんどいから。)
(03.12.15 21:30)

遠藤ミチロウ(えんどうみちろう:パンク)
玄地屋は高校三年から大学入学の頃に「これだ!」ってバンドに出会った。お目当ての誰かの記事が載ってた「GIGS」を読んでいたらthee michelle gun elephantのドラマー・キューちゃんがオススメ盤としてあげた中にパンクバンド、ザ・スターリンの代表作「虫」があったのだ。それまで大槻ケンヂの文章でスターリンてバンド名は見たことがあったけど、このとき初めて「ああ、ちゃんとしたバンドなんだな」と思った。CD屋さんで買って聴いたのだ。
「ス、スゲエ。。。(;゚Д゚)」かっこよすぎた。わりとライブアクトの奇行の面(臓物・汚物投げ、強制オーラルセックス等)ばかりで注目を浴びがちだが本来それ抜きでもっと評価されるべき。遠藤ミチロウはそのバンドの作詞作曲をしギターを弾きヴォーカルを取り、しまいにゃ自分の個人名をスターリンにした。その後解散、後期スターリンを経て現在はアコギ一本でライブ狂生活。
玄地屋が「大先生」といったらあっぱれさんまでもなくましてやっぱりでもない。この男のことだ。
「吐き気がするほどロマンチックだぜ!」 (「ロマンチスト」より)
(写真はザ・スターリンのトレードマーク「暗黒日の丸、Sに♂ペニス」。)
(03.12.18 21:30)

大槻ケンヂ(おおつきけんぢ:ロック)
高校二年のとき「笑っていいとも!」テレフォンショッキングに見慣れたひび割れメイクの男が出演していた。男はロックバンドをやっていた。そのとき初めてそいつのCDを買った。男はそれまで玄地屋が行く先々に姿を現していた。玄地屋が中学校に入って「格闘技通信」を買い始めると格闘技オタクとしてエッセイをいたるところに発表し、玄地屋がオカルトに興味を持つとヤツは医者に止められる程のオカルトきち○いぶりを発揮していた。高校入学後ブンガク青年を志したくせにそのいいとも出演以降なぜかこいつの小説・エッセイばかり読んでいた。こいつの薦めた文学も読んだ。CDも聴きまくった。青春のかさぶたと呼ぶにはまだ早いかな。
コイツはホントにダメ人間だ。ただ、ダメ人間の兄貴分だと思う。
(写真は大槻初主演唯一主演Vシネ『空想科学任侠伝極道忍者ドス竜』監督は永井豪。)
(03.12.18 21:30)

空手会(からてかい:サークル)
’02年の調査合宿で知り合った友人であり空手・中国武術の愛好者であるvoriと彼の友人を集めて不定期に組み手(空手の実戦形式の稽古)のあつまりを開催している。基本的なメンバーはvoriとその友人、C、Hなど。Mは某大空手部OBで我々の先生的な存在。ちなみに玄地屋も空手をかじった経験はある。わざわざ組み手のために集まるときもあれば酒を飲んでる席で突然始めるときもある。この集りには今のところ呼び名はない。組み手会とも格闘大会とも呼んでいる。サークルと呼ぶほどのものではないが取り敢えずそうカテゴライズしておこうか。voriは玄地屋の所属を杖術としてくれているが杖は合気道をかじったときに教えてもらった程度なので正確には柔道だろうな。
Mたちとはvoriのおかげで知り合いになれた。友達が増えるのは愉快だ。今後は勢力を拡大して一流一派をなし、オープントーナメントをあら(略
(写真は準備中。詳細はこちら。’03年12月改称。)
(03.12.21 22:30)

グレイシー一族(ぐれいしいいちぞく:ワガママ一家)
1911年ブラジルに渡った柔道家・前田光雄(通称コンデ・コマ)。彼から教わった格闘術を“jiu-jitsu”として代々伝えてきた家族。直接教えを受けたカーロス、その弟エリオの家族を中心とした親族関係を一括りにしてこう呼ぶ。
93年に第一回UFC(あの頃は「アルティメット大会」が一般的だったと思う。アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ。)をセルフプロデュース。エリオ六男・ホイスが連覇しその名は一躍世界に広まった。その後はまあぐぐれ。
この第一回UFCをビデオで見た玄地屋はそれまで見たことのなかったグラウンドテクニックに魅了され、組み技格闘技へ傾倒する。高校入学を機に柔道を始めたのだよ。
先日私が新宿スポセンで声かけられたのはこの分派である「マチャド柔術」の先生だった。
(写真は無し。ホイスの資料画像くらいいくらでもあるんだけど今出すのめんどくさいから。)
(03.12.15 21:30)

JAGATARA(じゃがたら:バンド)
79年結成のファンクロックバンド。ファンキーなアフロサウンドがかっこいい。「じゃがたらお春」「財団法人じゃがたら」「暗黒大陸じゃがたら」といったバンド名を経て最終的に「JAGATARA」となる。あまりよそで得られる情報はここには載せまい。
ステージ上で脱糞・放尿などの奇行を繰り返したヴォーカリスト・江戸アケミは、確か私が小学校3年生くらいの時に自宅の浴室で死んだのだった。父親が通勤時、毎朝買っていた日刊スポーツの芸能面で読んだ記憶がある。その時は「江戸アケミ」なんて名前の歌手がまさか髭のオッサンだなんて知る由もなかったし、十数年後の今になって自分が聴いてるだなんて夢にも思わなかろう。
そんな私とJAGATARAとの再会は高校二年か三年生のころ。当時、私がご執心だったヴォーカリストで作家・大槻ケンヂの文章に、'80年代に大槻が熱狂したアンダーグラウンドアーティスト達が紹介されていた。その中に江戸アケミ率いる「JAGATARA」に関する記述もあったのだ。その他にもいろいろなバンドのことが書いてあってそれぞれ聴けるだけ聴いてみたけどJAGATARAはその中でもかなりかっこいい。んで、ついDVD買ってみたけど03年12月2日現在まだ観れていないw
(写真はアルバム「それから」)
(03.12.02 23:55)



柔道(じゅうどう:日本武道)
玄地屋はその高校時代を柔道部で過ごした。特に強豪でもない公立高校の柔道部だ。中学生の時に第一回UFC(あの頃は「アルティメット大会」が一般的だったと思う)の映像を見て格闘技、とりわけ組み技に魅せられた。私にとってグレイシー一族は幻想の人達だったのだ。
入部してからは練習に出たり出なかったり。2年になったら団体戦では後輩におんぶに抱っこ。引き分け要員の上に咬ませ犬。
ここまで読んでそれでも「玄地屋は強い」なんて勘違いはやめて欲しい。
公式戦績:1勝、数引き分け、たくさん敗。これが玄地屋の実力である。
(写真は玄地屋所有の柔道衣)
(03.12.15 21:30)

調査団(ちょうさだん:学問)
玄地屋は大学在学中某社会科学の講義を履修し続けた。その中で最も親しくさせていただいた先生が調査実習旅行を主催しておられた。玄地屋は在学中に二期参加させていただいた。voriやラグビー観戦の友Yともこれで知り合った。玄地屋は参加者中最も不真面目で使えないやつだった。
(写真は調査報告書)
(03.01.08 22:50)







ホーク・ウォリアー(ほーくうぉりあー:プロレスラー)
(もともと「追悼特集!ホークウォリアー」として書いたものに加筆訂正。)
日記にも書いたが先日プロレスラー・ホークウォリアーが亡くなった。45歳だったという。83年6月デビューの後、アニマルとロードウォリアーズを結成しブレイク。コンビ芸「ダブルインパクト」はもはやウォリアーズの代名詞だった。佐々木健介(パワー・ウォリアー)とのコンビ・ヘルレイザーズでIWGPタッグを2度戴冠。AWA、WCW、WWF、全日本、新日本、WJなど世界を股にかけて活躍。ビルドアップされた肉体を利用した攻撃は単なるパワー攻撃にとどまらずタッグの「うまさ」を感じさせるレスラーであった。ホークを偲んで私が持っているホークの思い出をアップ。私が小中学生の頃全盛で、私を魅了してくれたホークにこれを以って弔いとしたい。
私が中学生のとき入手したホークのぬいぐるみ。サイズは所謂UFOキャッチャーサイズだ目が怖い。。。正面から見るとちょっと首が上向きすぎ。。。大概な造形だな。大山のプロレスショップで購入したのだ。相棒アニマルもあったはずなんだが見当たらない。。。確か他にホーガン、サベージ等とのセットになっていたのだった。サベージとかかんけー無いのはすぐ見つかるんだけどなあ。
(03.12.04 23:05加筆訂正)

見世物小屋(みせものごや:イベント)
新宿・花園神社はこの時期酉の市「大酉祭」が催され熊手を買い求める人、参拝する人でごった返している。その明治通り口の脇に見るからにいかがわしい小屋がたっている。これこそが最後の見世物小屋だ。
大学に入学した頃、サブカルなんてジャンルがこの世間にはあってそれが私にとってどんなに魅力的なものかを教えてくれたマンガかきコンビがいる。その名も唐澤商會。その唐澤商會が作品の中で頻繁に取り上げていたのが花園神社の見世物小屋だ。ずっと見ようと思っていたんだけど大学4年になってやっと見れた。現物を見てないのに卒論のテーマにしようとしたくらい(結局違うのだが)入れ込んでいたから感激もひとしお。第一回玄地屋商會主催花園神社大酉祭オフは参加人員6名で無事行われた。ついに見たよ、念願の見世物小屋。実物はやっぱすげーや、おもしろかったあ。
大寅興行は唯一残る見世物小屋として日本全国を廻っている。もう興行回数も減って演者も減って大変なようだ。てなことを書こうとして参考サイトを探してたら、私が玄地屋商會を立ち上げる時に背景デザインを真似した見世物小屋サイトが閉鎖してた。現場の人たちはインターネットで情報を出されるのを快く思っていなかったのと知ったためという。確かに内容は詳しく書かない方が面白いかも。「芸」という言葉の奥深さを知るよ。
(写真は大酉祭り名物「大寅興行の見世物小屋」)
(03.12.11 22:33)
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送